お寺で生まれ育ったボクは、夏になると昔の『お墓参り』や『納骨堂参り』の光景を思い出す。『お墓参り』、といってもボクの場合は家族でご先祖のお墓にお参りをするのではなく「お経をお願いします」と頼まれてお経を唱える、いわゆる『お坊さん』側の方だ。実家のお寺の裏には、御門徒さんの方々のお墓があったし、寺の中には納骨堂もある。読経の依頼があれば、幼い頃は一休さんさながらの子供用のお坊さん衣装を身に纏い、父が唱えていた『讃佛偈』を見よう見まねで唱えていた。『何故お経を唱えるのか?』などは疑問に思わず、ひたすらお墓や納骨堂の前で読経する。お墓や納骨堂には『骨』が『はいっている』…と小学生ながらになんとなくはわかっていた。
昔、御門徒のおじいちゃんで、キャベツを大量にわけてくださっていた方がいた。自転車の後部に荷台を紐で括り付け、その上に大量のキャベツや白菜を乗せお寺まで運んでくださる。「つくりすぎたからお寺さん達食べて」と重たい野菜を運んでくださる姿は鮮明に覚えている。
そのおじいちゃんが、お参りに来たときのこと。父が対応していたと記憶するが『ようやく、いま、お骨をおさめてきた』とポツリとおじいちゃんが一言つぶやき、悲しげな、それでいてどこか落ち着いた表情のおじいちゃんを遠目から眺めていたことがある。確か、おじいちゃんの奥さんが亡くなり、その奥さんの納骨だったと思うが、その一言で、納骨堂やお墓はお骨が『はいっている』ものではなく、人の手によって大切に『おさめられている』場所だということをおしえられ、子供ながらにボクはおじいちゃんの丁寧な言葉に感動したものだった。大切な人を自分の手で収め、手を合わせる。そしてお経は決して呪文なんかじゃなく、誰かを供養するためのお経ではなく、大事な方を通して生きている自分がみ教えに出会う機会なんだということも、その後わかった。その御門徒のおじいちゃんに直接教えられたわけではないが、その言葉、姿、態度を通して学ばせていただいた、おさないころの思い出。
いま、実家のお寺にはそのおじいちゃんのお骨も、大事に収められている。
お盆こばなし➀
