49日を考える➀

 先日、今年に入り2度目の利尻島へ。鴛泊の願正寺御住職、古川さんの49日法要をご自宅で勤めさせていただいた。先月、古川さんのお葬儀のご縁で恐縮ながら、ぼくが導師を勤めさせていただいたご縁もあり、今回も49日の法要をご家族と一緒にお迎えすることになった。
  事前に『~四十九日をお迎えして~』という、49日法要の意味合いやそのおこころについてまとめた紙を準備し、当日は御家族の方にそれをお配りし、読経の前にみなさんに読んでいただきながらお話しをした。この資料を作成したことにはぼくなりの思いがある。
  10年前、あるご家族の四十九日でのこと。お勤めが終り、施主の奥さんがぼくにこう言った。『…あの人は、いまどのような状態でしょうか?』。なんとも言えない表情で言われた、この一言は今でも忘れない。そしてこの言葉こそが、ぼくが49日を深く考えるきっかけになった。
  仏教のはじまりインドでは、人がいのち終えると次のいのちに生まれ変わるという考え方があった。すぐに生まれるというわけではなく、中間の期間があり、七日間の節目を数え満数の49日目には必ず次の命に生まれるとされてきたらしい。その期間を中国では『中有(ちゅうう)』とか『中陰(ちゅういん)』と訳し、亡き方への儀礼として大事に執り行われてきた歴史がある。49日目には『満中陰(まんちゅういん)』といって、最も丁重におつとめされる。宗派によって意味合いは異なるが、浄土真宗は阿弥陀如来のはたらきで、いのちおわると、ただちに浄土にうまれさせていただくとされる。では、浄土真宗で49日を勤める意味は?~続く~